TRAVERING

なぜ旅に出るのか?そこに地球があるからさ。

若き青春三部作「若き実力者たち」「敗れざる者たち」「地の漂流者たち」

      2017/05/28

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若き実力者たち ★

1年間に12人の人間を書いたルポータジュ。深夜特急の旅より昔の1972年頃の作品だが、すでに沢木氏はこの本の内容を「人物紀行」であり「紀行文」であると述べている。

取材したのは、このとき芽吹いたばかりの若者たち。その誰もが今では大木と成っている。尾崎将司、唐十郎、河野洋平、秋田明大、安達曈子、畑正憲、中原誠、黒田征太郎、山田洋次、堀江謙一、市川海老蔵、小沢征爾。ほぼ全員の名を知っているのではないだろうか。

今で言えば誰だろう。

たとえば、大谷翔平、猪子寿之、小泉進次郎、奥田愛基、西畠清順、坂口恭平、西尾維新、新海誠、南谷真鈴、市川海老蔵、宇多田ヒカル。ぼくが「若き実力者たち」をリバイバルするなら、この12人にインタビューしたい。どなたかこのエントリを読んでいる編集者の方がいたら、それは奇跡です。ぼくにやらせてください(本気です)。ぼくは既に32歳だが、沢木氏は24歳で「沢木耕太郎って誰?」と言われる時代にやってのけたのだ。

ひとつの事件と主人公の過去を並走させる

12本のルポータージュに共通しているのは、ひとつの事件を、その人物の生い立ちと掛け合わせて「起床転結」させているところだ。

時間軸の異なる2つの物語が並走しながら進んでいく。村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のような書き方をイメージする人もいるかもしれないが、その限りではない。ひとつの事件というのは、その人物の萌芽の瞬間ともいうべきセンセーショナルな瞬間であると同時に、沢木氏がその人物のどういうエピソードに興味を持ったのか、その理由が分かるようになっている。すべての文章がそこから始まり、一気に生い立ちへと遡ることは共通しているのだが、そこから先の並走の仕方については様々だ。

たとえば、畑正憲の場合。沢木氏が彼に会いにいく旅とともに並走する。滞在1日目から次第に明らかになっていく「ムツゴロウ王国」の実態とともに、畑正憲の生い立ちも明らかになっていく。

とにかく、この手法はぼくも試してみたい。

1人を書くために100人にインタビューする

インタビューしているのは本人だけではない。奥さんや家族、仕事仲間、同級生、先生など、本人を取り巻くあらゆる人物にインタビューをしていることが読み取れる。

本人へのインタビューは1時間も時間を作ってもらえなかった人物もいるらしい。政治家である河野一郎の場合などがそうであろう。たとえそうであっても、関係者にインタビューを重ねることで本人を描き出すこともできる。

「あなたにとって●●は、どういう人物ですか」「一緒に過ごしていて●●らしいなと感じたエピソードはありますか」「●●のことをよく知る人物を紹介してもらえませんか」そういった質問を繰り返して、たくさんの人に会ってまわったのではないだろうか。たしか沢木氏はこの本を書くために1,000人にインタビューしたと言っていたように思う。

無名時代の葛藤を幼少期からあぶり出す

さて、この本で沢木氏は何を聞こうとしているのか。「あとがき」にこのような文章がある。

批評も分析もぼくの任ではなかった。ただ、その人物が抱かざるをえなかった情熱の旋律に耳を傾け、その奇跡を足早に紀行することがわずかにできたにすぎなかった。酒を飲みながら、あるいは車窓を通り過ぎていく風景を見ながら、時折、彼らの躰の奥底から吐息のような呟きの洩れるのを聴くことがあった。そのような時、彼らの多くは自らの「宿命」について語っていたものだった。

「才能の発芽」というのは事件である。ニュースなどでその名を突きつけられたとき、デビューするべくしてデビューした天才に見えるものだが、必ずしもそうではない。どんなに早熟な人でも必ず無名時代の過去がある。その時代の葛藤を書くことは、その人物の本質を捉えることになる。あるいは、どんな強みも必ず弱みと表裏一体であるわけだが、今となっては宿命的な美談と言える、その裏側にあるエピソードをあぶりだしていく。そうしたインタビュー記事の王道を沢木氏は最初の仕事で完成させたのだ。

沢木氏をめぐる旅をするにあたって、ひとつの鍵となるのが「インタビュー」である。インタビューには自信がある、と度々口にしている沢木氏だが、一体どんなことを聞こうとしているのか。そこに書き手としての学びの種が隠されているように思う。ぼくもインタビューを書く仕事を増やしたい。「バリ島旅行のみかたのホリさん」との対話はリアルタイムで楽しくて仕方がなかったし、「あ、この人は今、この話をはじめて人に話しているな」そう感じる瞬間がたまらないからだ。その瞬間を「掘り当てた瞬間」と表現するライターもいた。それは自己満足ではなく、貴重な時間を割いてくれている、相手の力になれた瞬間である気がして嬉しいのである。

冒頭のような現代の若き実力者たちを取材するほかに、「1984」という企画はどうだろう。1984年生まれのぼくが、同世代の人物をルポタージュする。同級生だから聞けることがあるはずだ。たとえば、島袋寛子、古市憲寿、綿矢りさ、伊調馨、夏目三久、長谷部誠、赤西仁、井上麻里奈、マーク・ザッカーバーグ、スカーレット・ヨハンソン、レブロン・ジェームズ、クリスチアーノ・ロナウド。必ずしも成功者である必要もない。「あの人は今」を書いても宿命は描けるはずだ。タイトルも村上春樹の「1Q84」のおかげでキャッチーである。

夢ばかり見ていても仕方がないので、ぼくは「旅人インタビュー」からはじめてみようと思う。12人の旅人を12ヶ月でインタビューする。たとえば、岩本悠、四角大輔、ロバート・ハリス、成瀬勇輝、詩歩、ネルソン水嶋、太田英基、 高橋歩、安藤美冬、高野秀行、高城剛、本田直之。ぼくが一方的に尊敬している旅人たちだが、それに限る必要もない。とにかく、手と足を動かしながら夢に近づいていきたいと思う。

敗れざる者たち★★★★

「若き実力者たち」に、若干の若さを感じるのに対して、こちらはすでに老年のような腕を感じる。沢木さんの書く力、その高まりのステップアップを追っていこうと考えていたぼくは、いきなり面食らった。

「若き実力者たち」から「敗れざる者たち」の間に何があったのだろうか。その違いは、沢木耕太郎という「私」がいることが大きい。レポートではなく小説を読んでいるような感覚に近くなる。

とくに、「長距離ランナーの遺書」は必読である。この中に、こんな一節がある。

この記事を地方新聞の豆記事に見つけた時、円谷幸吉とその死の間にある亀裂をこの手で埋めてみたい、とぼくは思った。

事前と事後の間にある亀裂を埋めること。それがノンフィクション作家の仕事なのかもしれない。沢木氏は陸上部ということもあり、その洞察はあまりにも深い。

「さらば 宝石」も素晴らしい。対象を「E」として最後にその名を明かす。その手法にカタストロフィを感じた。読者をゾクゾクさせるための、あるワンシーンをつくる。すべての文章をそこに収束させる。そのお手本のようだ。

ほかにも、「クレイになれなかった男」はその後の傑作「一瞬の夏」につながる布石であるし、「三人の三塁手」はのちに「深夜特急」として描かれることになる旅から帰ってきて最初の仕事として書いたもの。それを知って読むことで味わい深くなる。

地の漂流者たち★

「若き実力者たち」と「敗れざる者たち」の後に出版された本だが、デビュー作である「防人のブルース」をはじめ、沢木氏の最初期のルポータージュがまとめられている。その意味ではデビュー作とも言える。この本のあとがきには内省的にこう書いてある。

自分の歌を人の声にのせてうたうという、場合によってはそれが自分の歌でさえないという、職業的なルポータージュの書き手に避けることのできない宿命が、これらのルポタージュ群にはあまりにも露骨にあらわれすぎていた。

沢木氏はそれを「無残さ」と言う。かつ以降の作品は、このようなルポタージュからの逃走であるとも言っている。

私ノンフィクション。この言葉は沢木氏の最大の特長にして、代名詞のように使われている言葉だが、その意味が分かるだろうか。私小説とは、作者自身の実体験をもとに書いた小説のことを指すが、私ノンフィクションもまた、作者自身の実体験をもとに書くノンフィクションのことを指していると思う。その点において、沢木氏は取材対象を冷静に取材する立場ではない。一緒になって事件に巻き込まれていく。そこに人の声ではなく、自分の歌としての「本当」を見出そうとしたのだろう。

沢木耕太郎をめぐる旅。それが成立するのは、氏の作品が私ノンフィクションであることが大きい。年代順に読んでいくことで、沢木氏が辿ってきた人生という道のりを追走できるのだ。

先日、先輩ライターにぼくの文章の感想を求めると、「自分をもっと出していいと思う」という言葉をいただいた。取材をもとにした記事を書くとき、ぼくは、つい相手の言葉をそのまま伝えようとしてしまう。「寿・黙示録」「五箇山和紙の里」はその例かもしれない。そうではなく、もっと自分を出す。たとえば、「断食修行」のように、だ。

「地の漂流者たち」に話を戻そう。この作品は、取材対象を外部から眺める沢木氏の姿が見てとれる。客観的であり、空論とは言わないが、机上の論理で批評する真っ当すぎるルポライターとしての姿がそこにある。鋭い考察にあふれているが「リアル」ではない。そこに「私」がいないのである。そして、後の「敗れざる者たち」には、まぎれもなく「私」がいる。

大学を卒業したての若者とは思えない筆力もさることながら、ここでも注目すべきは取材力。収録されている「防人のブルース」では横須賀線の列車で話しかけた防衛大学生をきっかけに、何千人というインタビューを重ねている。「性の戦士」では、ピンク映画を1週間に渡り何百本と観ている。本当の取材とはそういうことなのだ。

2泊3日ぐらいで1人に密着して何が分かるというのか。少なくとも1週間。それも、1人ではなく100人に取材をする。ぼくの記事が「相手の言葉をそのまま伝えようとしてしまう」のは、取材が足りないからだ。違う意見を持つ人の言葉を収集していないからだ。それらの情報を手札いっぱいに広げて、自分なりの言葉を構築していく。それが本物のルポータージュなのだ。

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