TRAVERING

なぜ旅に出るのか?そこに地球があるからさ。

「旅する哲学」アラン・ド・ボトンから旅学した6つの言葉

      2016/05/20

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なぜ、どのようにして旅行するのか。

尊敬する友人から勧めてもらったこの本。副題には「大人のための旅行術」と書いてある。

二十一世紀の旅人の不幸は、エキゾティックなものや未知なるものが、TVをはじめとするヴィジュアルな情報の氾濫のせいで、擬似的な既視感に犯されていることだろう(中略)発見の喜びは奪われ、世界の平均化は進み、行き届いたガイドブックは考える能力さえ奪いかねない始末。そこで取っておきの切り札とも言うべき自然の出番となる。だが、その自然も加工され、少なくともルーティン化されて、わたしたちは処方どおりに癒されたり、処方どおりに崇高感に打たれたりしないという保証はない。観光産業は、生ものを加工してしまう。危険は薄らぐが、それとともに生の感動も薄れてしまう。

あとがきにて訳者の安引宏さんは現代の旅の問題点をこう指摘している。そしてこう続ける。「だが、まだ秘境は残っている。それこそ、わたしたちの感受性だ」と。現代の旅で求められるのは「見る技術」なのだ。実はこの話も、その尊敬する友人から聞かせてもらっていた話でもある。ここから先は本書を読んで僕が哲学した6つのことを共有したいと思う。

1.僕らを旅に突き動かす旅行記には「行間」がある

紀行文を寄稿することが増えているが、僕自身も読者に旅を伝えようとするとき「書かない話」が実に多い。嘘をついたり都合の悪いことを隠したりしているわけではない。分かりやすく伝えるために書くに値しない出来事をカットするわけだが、そのカットされた部分がいかに多いかという話だ。
たとえば、北海道を旅した「未知の絶景」で「室蘭の工場“昼”景」を取り上げたが、もともとは「地球岬」を書こうと思っていた。しかし、到着してみると霧がヒドくて絶景写真など撮れそうになかった。何より中国からの観光客が多く「未知」とは言えないと判断したわけだが、そのとき、地球岬の中心で太極拳をしている男がいた。霧がかる山頂の岬で太極拳。その姿が妙にキマっていて写真も撮らずに見とれていたが、そんなことをここで書いても仕方がない、というふうにカットしたわけだ。
ほかにも、旅の楽しさを書き描いているときも、実際はその裏に不安も同居していたりするわけだが、感情をデフォルメして書くことも多い。そうしないと話が前に進まないからだ。この本によって、いじわるにもそれを突きつけられたわけだが、しかし、こう考えることもできる。憧れるような旅を書いている人も、きっと同じなのだと。第一、体験が記憶になるころには、どのみち細部はカットされている。旅に期待しすぎることもなければ、失望することもないのである。

2.案内板がよその国に着いたことの決定的な証拠になる

旅をすると世界を俯瞰的に見れるというのは、よく言われていることだ。しかし、それを象徴するのが飛行機だとは考えたことがなかった。母国を離陸するとき、いつもの町の全貌が見える。成田空港だけではなく、自分の住んでいる町が空から見えたりする。そうして鳥の目になって見てみると、都会だと思っていても意外と緑が多い国だと思えたり、母国や自分に関して実にいろいろなことが見えてくる。そして、その飛行機が目的地に到着したとき。案内板を見ることから思考の旅ははじまる。なぜ英語表記が3番目なのか、なぜそのフォントなのか、なぜその色なのか。その案内板には国の成り立ちの背景も映されている。日本の案内板に中国語より先に韓国語があることに驚く欧米人もいるかもしれない。それは中国より韓国との結びつきのほうが強い歴史を表していたりするのだ。

3.旅先で見るべきものには好奇心が育つタイミングがある

「なぜ教会は場所によって違うのか?」本来、旅にはそんなゆっくりとした好奇心の展開が必要である。でも、ガイドブックはそれらをすっ飛ばして「情報」を与えてしまう。「紀元前330年にアレクサンダー大王が〜」といった具合にである。そうして、必要な感受性が育つ前に間違ったタイミングで訪れてしまうと不幸である。世界遺産を追いかけた末に遺跡に飽きてしまったりするのはそのせいかもしれない。旅行先で見るべきものにはタイミングがある。観光地だからといって無理に行ってしまうとかえって損。それよりも、旅先ではあてもなく町歩きをして、「なぜ?」を拾い集めるところからはじめたほうがいい。絶景写真はグーグル検索でも楽しめる。でも、オリジナルな好奇心から生まれた旅の答えは、きっとグーグルには載っていない。

4.目に映るものを正確に見る必要はない

本書に出てきたゴッホの絵。これが強烈に印象的だった。物を見るときに、いかに目に映っている物から離れるか。その大切さを思い知ったようだった。そう、写真で撮れるような記憶は、わざわざ脳内メモリに残す必要もない。目で見た物事を起点に脳内トリップをして想像の旅に出ること。まさに、秘境は感受性の中にある。

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5.世界にはつねに、どんなにゆっくり歩いても、人が見ることができる以上のものがある

本当に貴重なのは思想であり風景であって、見る速度ではない。1日1視点でいいから、誰も着目しないような物事に足と目を止めて深く思考する旅がしたい。自分が住んでいる町でもいい。たとえば、自分の家から一番近い電話BOXがどこにあるか知っているだろうか。意識して歩いてみると、案外すぐに見つかったりするものだ。「毎日歩いている通りにあったのに気づかなかった」なんて話もある。人は目を開けていながら、実にほとんどの物事を見ていないのである。

6.一人旅がいいとは限らない

僕と一緒に旅したカメラマンが、僕の知らないうちに別の友人に写真を送っていた。それは、まっすぐ伸びる線路に向かって、前屈をするようにしてカメラを線路に近づけて写真を撮ろうとしている僕だった。それが送られた友人は「自分も似たような写真を持っている」と笑って同じ構図の写真を送り返したそうだ。自分が隠し撮りされまくっている事実にも驚かされるが、いかに変な格好で写真を撮っているのか気付かされた。そして、返信されてきた写真を見てカメラマンは言ったそうだ。「アイツは真っ直ぐな道が好きだから」と。
そこに「人生も」という意図があったかどうかは知らない。だけど、そう思われているとしたら悪くない心地がしたものだ。これは、カメラマンや友人とそれぞれ旅をしてきたからこそ起きたこと。本書には一人旅を進める論調もあったが、一人旅もいいが、誰かと行く旅と比べるものではない。どちらも素晴らしい旅になる。

 

本書の原題は「THE ART OF TRAVEL」。哲学者が書いた本だけあって芸術に対する博識に追いつけないところもある。それを抜きにしてもおもしろい本だと思う。旅慣れた人が抱えるモヤモヤを言葉にしてくれているからだ。それも、かなり深いレベルで。よって、この本が味わえる人は旅慣れていると言えるかもしれない。

直訳だと思うが「旅は思索の助産婦である」そう書いたアラン・ド・ボトンのセンスに、そしてこの本を薦めてくれた友人のセンスに感服する。

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