日本のロードムービーといえば? 四国の自然も、起承転結も美しい映画「旅の重さ」
少女が元気に旅する緑の道。アコースティックなやさしいアルペジオが聴こえてくる。ずっと聞いていたいと思えるような気持ちのいい旋律。ふいに、そのメロディに歌声が乗って驚いた。その歌い出しが「私は今日まで生きてみました」だったからだ。
少女はこのとき、ほぼ、死んでいたのだ。
1972年に公開された映画「旅の重さ」。日がな男を連れ込む母親に、嫌気がさして家出をした少女はあてもなく歩き出す。幸い、そこは四国である。お遍路さんに紛れて海岸沿いをひたすら歩いて旅をする。
起:憧れていた土佐の海!
緑豊かな大自然で寝泊まりする心地よさ。見ず知らずの自分に優しくしてくれる地元の人たち。気のあう旅人どうしの出会いと別れ。旅をして急に大人になれた気がする全能感。そして、憧れの海を前に、服を着たまま飛び込んでいく少女。旅の醍醐味を全身で謳歌する。
承:食べることと寝ることと男女のことしか考えない彼らの生き方には放浪に徹したある気高さがあります。
※土佐清水市下川口の天満宮
旅芸人の一座と出会った少女。旅慣れたと言っても上には上がいる。彼らはあきらかに大人で、自由で、その生き方に憧れる。持ち前の度胸で仲間に入れてもらった少女は、その中のひとりの女性に境遇を重ねる。少女と同じ16歳で家を飛び出して自立した大人の女性だったからだ。
「ねぇ、泳ごうか」そう言われて、戸惑いを見せた少女は「平気よ。水着なんかなくなって」と憧れの女性に言われたことで、服を脱ぎ捨てる。今度は、裸で海に飛び込んでいく。そう、これまでの一人旅で感じた自由は偽物だった。本当に裸の自分になれたのだ。
転:ママ、私は旅に疲れてきたわ。
しかし、彼らは本当の自由ではなかった。生活はだらしないし、お金のためにやりたくないこともやらなければならなかった。幻想は打ち砕かれ、失望のまま後にする。しかし、悪きは重なるもので、病気に罹り、足取りが重くなる。
何かが肩の上にどさっとのしかかってるみたいで重い、重いの。これは、そう旅の重さなんだわ。でも私はこの重さを嫌ってるんじゃない。これを感じなくなったらおしまいだとさえ思ってるの。だけど重いわ辛いわ。
長く旅をしているとこういう時期は必ず来る。絶景に、人の優しさに、旅に感動できない自分に直面して「このまま旅を続けてよいのだろうか」と自問自答することも、そのひとつかもしれない。
少女はついに、行き倒れてしまう。
結:私は旅に出てはじめて気が休まる思いがしたんです。
※愛媛県愛南町(旧西海町)外泊地区
目が覚めたら、助けられていた。介抱してくれたのは無口で無愛想で貧乏な男。「裏があるのでは?」と疑うが、元気になっても見返りひとつ求めてこない。その実直さに解きほぐされていく少女。
それでも、少女は大人になりきれず、拒絶して、拒絶される。
なぜ私は人と心から打ち解けることができないの?いいえ、私だけじゃないわ。ママと私はいつもこの調子なのね。誰からも理解されない。誰からも両手を広げて迎えられない。こちらがどれだけもがいて努力しても、努力すればするほどするほど一層、人は遠のいて行くじゃないの。
そして、物語は意外な結末を迎える。
私は今日まで生きてみました。
これぞ、日本のロードムービー。これまで見てきた旅映画の中でも、記憶に残る名作だ。「起承転結」のお手本のような脚本は素晴らしく、少女が旅に出た理由、その「旅の重さ」が少しずつあきらかになっていくところが心に迫る。
私は今日まで生きてみました。
冒頭の歌は、吉田拓郎の「今日までそして明日から」。誰もが一度は聞いたことがあるだろう。そして、その歌詞はこう続く。
そして今 わたしはこう思っています。明日からもこうして生きていくだろうと。