冒険家である前に旅人だった植村直巳
植村直巳。
その名前をぼくは知らなかった。それもそのはず、と言ってもいいかもしれない。ぼくが生まれた1984年に、亡くなってしまった冒険家だからだ。当時43才、死後、国民栄誉賞を受賞。
大学の山岳部時代は「どんぐり」と呼ばれるくらい目立たない存在だった。就活にも馴染めず移民船でアメリカへ。飛び込みと住み込みで働きはじめるが移民管理局に捕まってブタ箱行き。釈放後、ヨーロッパに渡り、またしても住み込みバイトをしながら山登りへ。すごいのはここからだ。4年後、アマゾン川をいかだで下り、60日間かけて6,000キロを走破。29才で日本人初となるエベレスト初登頂を達成。同年8月に北アメリカのマッキンリーに登頂して、世界初の五大陸最高峰登頂者となった。その功績から日本人ではじめてナショナルジオグラフィックの表紙を飾った。
その後、北極圏12,000キロを単独犬ぞり行で踏破。グリーンランド3,000キロ縦断も成功させる。満を持して「南極」に挑むはずがフォークランド紛争の勃発により延期。その間、厳冬期のマッキンリーに挑み登頂を果たす。しかし、その直後に遭難が発覚。遺体はいまだ見つかっていない。
クレバスに落ちた、と言われている。クレバスとは氷河の割れ目のことだが、大雪によってそれが覆われてしまい、それと気づかず落とし穴のように落ちてしまうのだという。植村さんは「物干し竿」を持って登頂することで、落下しても途中で引っかかるように工夫していたそうだが、その日、何が起きたのだろうか。
植村さんが冒険家として何に優れていたかというと「慎重さ」だったと親しかった人々は口を揃える。「冒険とは生きて帰ること」と繰り返していた植村さんがなぜ。実はこのころ、厳冬期のエベレスト登頂に失敗して、南極計画も頓挫するなど失敗が続いていた。植村さんほどの人でも「焦り」があったのかもしれない。まず借金ありきの冒険家という職業は、失敗によりスポンサーが離れると終わり、という時代でもあった。マッキンリーに遺されていた日記には、「何がなんでもマッキンリーに登るぞ」と、鼓舞するよりむしろ自分を強迫するように書かれていたという。「何がなんでも」という言葉は冒険家にとって諸刃である。
数々の伝説を残した植村さんだが、ぼくが好きなのは、南極3,000キロを踏破する前に、稚内から鹿児島までが同じ3000キロであることから「歩いてみた」という話。しかも52日間で。休んだのは兵庫の実家を通過した1日だけだという。驚異的だ。
そして、もうひとつ。冒険家である前に旅人であるところ。たとえば、エスキモーはアザラシの生肉を食べるが、それが怖ろしく臭うし不味いという。多くの冒険家は口にしない(したくてもできない)が、植村さんは食べたという。はじめて食べたときは、飲み込んだものの、勝手に胃が戻してしまったという。ぼくが中国でセミを食べたときもそうだった。胃はほんとうに受け付けないことがあるのだ。それでも、エスキモーの一員として食べることを重要視した。出されたものはどんなものでも美味しいと言って食べ、ダンスがはじまったら仲間に入って踊る。そのスタイルが冒険家である前に旅人だ。日本人がエスキモーの村に行くと「ナオミを知っているか?」と聞かれるだけでなく、「ナオミ」と名付けられた子供がたくさんいるという。それが何より愛されていた証拠ではないか。アマゾンでいかだ下りをしたときも、現地のボロを着て、カメラやピストルも持たなかったという。「こちらが何もできないということが相手に安心感を与える」と言っていたという植村さんが、ぼくは好きだ。
最後に、そんな植村さんが遺した名言を。名言は誰が言うかで重みを増す。
あきらめないこと、どんな事態に直面してもあきらめないこと。結局、私のしたいことは、それだけのことだったのかもしれない。
恐怖というのは、なんど体験しても、そのつど新鮮で、私はそれをうまくごまかす術を知らない。
前進しなければ、私の後悔はもっと深く、もっととり返しのつかないものになるにきまっている。
植村さんの故郷でもある兵庫県城崎郡に「植村直己記念館」があるという。近々、行ってみたいと思う。