インド・アフター・インド
2015/05/26
同じ川のなかにいたのでは、
身の汚れを落とすことができないように、
わたしは、ときどきインドという洗濯機のなかへ
自分の身を放り込む。
そして、あらゆる生物が混ざり合う巨大な渦のなかから
自分自身をつまみ上げるとき、
日本にいる間、毎日少しずつ鬱積していた余計なものが
きれいさっぱり、洗い流されているのを感じるのだ。
わたしは、いつもインドへ充電のために帰るのではない。
日本での生活で余分に蓄積され、
抱えきれないほど溜め込んでしまった熱や、想いや、情動を、
熱い夜の闇に放電するために帰るのだ。
「貧しさ」とは、いま、わたし達の手にあるものがそこにないことを言い、
「豊かさ」とは、いま、わたし達の手にないものが
そこにあることを言うのかもしれない。
ある日、彼と食堂でカレーを食べながら、
わたしは不意に思いつき、ひとつの質問をした。
「もし、いのちがあと1日しかなかったら、
あなたは、最後になにを食べる?」
わたし自信、よく自分に投げかける質問だが、
生まれてからずっとカレーを食べ続けているインド人なら、
人生の最後に、いったい何を食べたいと思うのだろうと、
ちょっとした好奇心から聞いてみたのだ。
間髪入れず、返ってきた答えはこうだった。
「自分なら、なにも食べないね」
「どうして?」
「明日で死ぬなら、自分が食べても意味がない。
それなら、ほかの生きものに食べものをあげるよ」
ヒンディ語を習いはじめて驚いたのは、
この国では、「昨日」も「明日」も「カル」ということばで
表すということだった。
昨日と明日の間に区別がないということは、
そもそも、この国のひと達にとって
その違いが重要じゃないからだろうか。
すべてのものを、
追わない、求めない、固執しない、引き止めない。
水も、よどめば腐るように、
わたし達は、
あらゆる流れをそのままにしておくべきなのだろう。
インドでのあいさつは
「こんにちは」も「さようなら」も、
「ナマステ」だけでいい。
出会いのあとには別れがあり、
そのまたあとに、出会いがあって、
それらがすべて、一本の線でつながるなら、
ひとと交わすあいさつは、
シンプルに「ナマステ」だけでいいのだと思う。
文:鈴木博子
写真:志賀章人
引力のある言葉がたくさんあるこの本。
文中でとくに気になった文章をピックアップしつつ、
僕がインドで撮った写真と勝手にコラボさせてもらいました。
(関係者の方に指摘されたら削除します)
一度きりのインド紀行ではなく、
何度もインドに帰る旅をしている人だからできた発見と、
そこから生まれた言葉がたっぷり詰まっている本です。