TRAVERING

なぜ旅に出るのか?そこに地球があるからさ。

      2017/06/04

最後の一行にゾクゾクした。カタストロフを味わいたい人はぜひ読むべき。

ルポライター児玉隆也の遺作となった「ガン病棟の九十九日」。その本には、正子夫人の手記がよせられている。沢木氏はこの文章のゴーストライティングをしたという。最初で最後のゴーストライティング。「ゴースト」という言葉がいけない。嘘をつくような後ろめたさを含んでしまう言葉だ。むしろ、「ブースト」とでも呼んで「共著」として誇れる言葉に育てあげるべきだったのだ。対象に話を聞いては書いて聞いては書いてを繰り返す共同作業そのものなのだから。

しかし、沢木氏はここに「壇」を書くきっかけを得た。対象に憑依して人称を同一化する。これまで「私」という書き手の立ち位置をとりわけ明確にしてきた沢木氏が、ついに主語を譲った。いや、そうではない。主語を対象に明け渡しながらも、そこに「私」を内包させるという新境地に挑んだのだ。「ゴースト」ではなく、むしろ逆に「生者」としての書き手をバーストさせているのだった。

この本は、檀ヨソ子という夫人をとして、その夫である小説家「壇一雄」という人物を描いている。しかし、それと同じくらい「壇ヨソ子」という人物を描いているとも言える。ふたりを見つめているのは沢木耕太郎という書き手。物語には存在しないはずの書き手の視点がまた強烈に存在している。

ここでひとつの仮説を立ててみる。檀一雄なる人物は、沢木氏と似ている、と。「最後の無頼派」と言われたが、不潔ではない。その潔さが似ている。そして、旅と人を愛している。沢木氏はそこに共感を覚えるからこそ、これを書き、自分を見つめるようにしながら、その差異をあきらかにしていった。

そのための檀ヨソ子さんへのインタビュー量たるや。週に一度の数時間のインタビューを繰り返したというが、それはどんなものだったのだろうか。取材嫌いのぼくは鳥肌が立ってしまう。

沢木耕太郎をめぐる旅。そのピークはこの「壇」なのではないかと今のぼくは想像している。作家の作品を著作順に読むことで、その作家が辿ってきた思考の道のりが見えてくる。沢木氏の主語をめぐる旅は、壇という作品でひとつの到達を見た。ぼくは文学とはなんなのか、そのひとつの読み方を得たように思う。文学とは人柄を伝えるもの、哲学なのだ。

壇一雄の終わりの住処となった「能古島」には辞世の句の文学碑があるという。ぼくは、志賀島まで行っておきながら、能古島にはいかなかった。無知というのは人生の大きな損失だ。一冊の本が、ひとつの島を行ってみたい場所へと変えるのだから。

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