TRAVERING

なぜ旅に出るのか?そこに地球があるからさ。

路上=ON THE ROAD

      2017/06/01

むかし読んだことはあるのだが、いま一度読み返してみた。しかし、正直な感想としては面白さがよくわからない。著者のジャック・ケルアックについて語られた「あとがき」が一番面白いと思ってしまう。

On the Roadは「路上」と訳されるが、本来は「旅行中」「家出中」「放浪している」「途上にある」というような意味がある。

アレン・ギンズバーグの詩集「Howl(吠える」」、ウイリアム・バロウズの「Naked Lunch(裸のランチ)」もケルアックが名付け親。それも内容を聞くなり、こういうのがいいんじゃないの?と放り投げるように簡単に答えたという。そして、社会現象を巻き起こした「Beat」という言葉もケルアック。なんてセンスだ。英語が分からなくても、そう思う。

ビートジェネレーションは、効率主義の管理社会に対する反抗。その犯行のひとつであるポエトリーリーディングは、まさに、社会に対して「吠える」ことであったのだろう。彼らは吠えて、酒とドラッグとセックスで夜明けまで語り合い眠りに落ちる。そして、目覚めて最初にやることといえば「裸のランチ」だったのだろう。

情景が熱量や匂いともに思い浮かぶ。あらためて、ものすごいセンスだと思う。路上はアメリカ人が英語で読むべき本なのだろう。日本人が日本語訳で読むことによる隔たりは大きい。面白さが分からないのはケルアックのせいではなく、受け取り手であるぼくの問題なのだ。

路上はケルアックの類いまれなる記憶力によって再現された限りなくノンフィクションに近いフィクションだ。サル=ケルアック、ディーン=キャサディ、リー=バロウズ、カーロ=ギンズバーグ。ビートジェネレーションを生んだ出会いと邂逅の物語。

「ビートニク」という映画も観てみた。

インタビューを受けるケルアックの映像を見て彼に親近感がわいた。おどおどして緊張を隠すように相手の質問が終わらないうちにしゃべり出してしまうケルアック。しかし、その答えは驚くほど正確でかつナルシスト。きっと彼は頭が良すぎたのだろう。そして言葉を書く人間としてのこだわりが滲み出ている。そして、こう思わざるをえない。ケルアックがふたりいても路上は書けなかった。キャサディがいてこその路上なのだ、と。

路上に印象的なシーンがある。ディーンとメリールゥに3Pに誘われるシーンだ。ケルアック=サルはやってみようと試みる。しかし、どうしても、できない。とことんまで行動をともにしながら、インテリ(コロンビア大学出身)としての自分の皮を破ることができない。世間からは「破滅的な生きかた」とバカにされていながら、「今を生きる」という人生の本質に気づき、本能のままに行動している彼らに強烈な憧れを抱くケルアック。彼はその憧れをひたすら書き綴った。それが路上なのではないだろうか。

彼はビートジェネレーションの名付け親にして、ビートそのものではない。ぼくには、そう思えてならないのだ。ビートとは「くたびれた」という麻薬用語だという。もちろんジャズのようなリズムを打つビートも含めた意味も持つ。Beat, Beat, Beat. その破裂音だけでトリップできそうだ。しかし、そこに死臭のような皮肉のにおいを感じとるのはぼくだけだろうか。ケルアックは孤独だ。事実、ケルアックはひとりアル中で死んでしまった。

消化不良が残っていたぼくは、映画版「オン・ザ・ロード」を観ることにした。尺が限られていながらも、原作の中で印象的なシーンをピックアップしてつなぎあわせている。

1940年代後半から1950年代にかけて生まれたビートジェネレーション。彼らの蜂起はやがてヒッピーへと連なっていく。ぼくが尊敬するホールアースカタログの生みの親、スチュアート・ブランド。そして、スティーブ・ジョブズへ。つまり、すべての原点はケルアックであり、路上である。

ぼくはキャサディにはなれない。しかし、ケルアックになりたい。日本のビートジェネレーションを今こそ生み出せるロードムービーを書きたい。それが、ON THE TRIP で実現できるならば、最高にbeatificだ。

The road is life.

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