TRAVERING

なぜ旅に出るのか?そこに地球があるからさ。

古くならない旅行記「深夜特急」

      2017/05/28

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深夜特急 ★★★★

深夜特急を書いたのは、沢木氏が旅を終えて10年後であることを知る人は意外に少ない。ぼくたちの世代ならなおさらである。

きっと、誰にとっても「人生を変えた本」というものがある。そして、それが「深夜特急」であるという人は多い。ぼくはその行列に恥ずかしげもなく連なる。ぼくにとっても深夜特急がそうであると。ぼくにとってはじめて見た世界であり、外国だった。

深夜特急をはじめて手にしたのは大学の図書館でのことだった。沢木氏と同じ横浜国立大学に通っていたぼくは、「沢木耕太郎コーナー」という本棚があることに気づいた。「深夜特急」という本の名前ぐらいは知っていた。他に興味をひく本が大学図書館にあるわけもなく、暇つぶしに読みはじめた。しかし、突如としてトントンと背中を叩かれ「閉館時間ですよ」と言われるまで夢中になっていた、と言っても大げさではない。図書館には昼間に入ったはずが、外に出ると真っ暗になっていて「ああ、久しぶりに本を読むことに夢中になったなぁ」と心地よい疲れに酔いながら夜道を帰ったことをよく覚えている。その熱が冷めやらず、その数ヶ月後にぼくはユーラシア大陸横断の旅に出ることも知らずに。

はじめて読んだときの印象は「緻密で正確」ということだった。六ルピーとか、十五香港ドルだとか、そういった数字が頻繁に出てくるからだろう。それだけではない。1日1日のエピソードが分刻みで描かれているような印象だった。

しかし、いま読んでみるとどうだろう。エピソードがものすごく整理されていることがよくわかる。もとは朝日新聞での連載だった深夜特急は、ひとつの国を語るのにはページ数が少なすぎる。2週間滞在した国を凝縮する1日をぐっと掘り下げている。だからこそ、数日、いや、一週間があっという間にすぎていく。

はじめて読んだときに、最も印象に残っていたのがマカオである。カジノにおける「大小」のシーンは圧巻だった。ギャンブルが持つ強烈な引力にあらがえず呑みこまれていく気配がリアルに浮かぶ名文だ。いま読んでも当然だがそれは変わらなかった。

さりげなく挟まれている地図とルートもなんども見返した。どれも聞いたことがない地名ばかりでそこに道があることを示すルートを見ているだけでわくわくした。香港、マカオ、バンコク、マレーシア、シンガポール。じぶんも歩いてきた道を追体験するように深夜特急を読む。これは前回は味わえなかった感触だ。その代わりに注目するようになったのは、沢木氏の旅のスタイルだ。

ガイドブックのたぐいは読まない。空港に着いたらその場で安宿があるエリアを聞く。道を聞くことからドラマが生まれるからだ。宿に荷物をおろしたら、適当にバスに乗って気になる場所で降りる。そこから宿まで歩いて帰る。その途中で、気になる食堂にはいって現地の食べ物をつまんだり、町の人と会話したりする。来る日も来る日もそれを繰り返して地図を体に刻んでいく。カメラも持たずに、現地の新聞を小脇にはさんで、手ぶらでさっそうと歩く沢木さんが目に浮かぶようである。

中でもおもしろいのは町の人とのやりとりである。深夜特急とはそれを描いた本だと言っても差し支えないのではないかとぼくは思う。誰とでも打ち解けられて、どんなことにでも筋を通して向き合っていく沢木さんは、背筋がぴんと伸びたまっすぐな人。あらためて、ぼくはその背中に書き手としてではなく、旅人として憧れることになった。

深夜特急を旅行記として読んだとき、最も驚くべきなのは、その普遍性である。ちっとも古くならないのである。世界情勢はめまぐるしく変わり続け、沢木氏が訪れたアフガニスタンを旅することはいまできない。しかし、沢木氏が書いているのはその土地の人間とのやりとりである。それは今も昔も変わらないもの。ぼくは半年間の留年バックパッカーの旅を通して、深夜特急に書かれている体験とそっくりそのまま同じ体験をしている。そういうことを書いているということに、あらためて驚かされるのである。

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