TRAVERING

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【バリのりⅣ】バリでバリバリ波にノリノリ!できたのか!? サーフィン合宿4~7日目

      2016/11/23

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結論から言おう。ここまで読んでくれた方には大変申し訳ないのだが、ぼくは失敗した。しかし、サーフィン合宿自体は失敗ではない。それ以上に大切なことが学べたと思うからだ。それはなぜか。

サーフィン合宿4日目

この日からインサイドではなく、アウトサイドへ出る。「沖へ出る」という意味だが、沖に行くには押し寄せる大波を越えていかねばならないということは前に述べた。それはつまり、沖へ出たあとは、その大波に乗るという意味でもある。

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写真では伝わりづらいのだが、この日の波はあきらかに穏やかで、これほどまでに海は表情を変えるのかと驚かされた。沖に出るための波の避けかたを教えてもらい、さっそく実践。何度も波に押し戻されながら、なんとか沖に出たところでボードの上に座る。その瞬間の爽快感といったら!

波待ち。ぼくは、波待ちがしたかったのかもしれない。逗子に住んでいたときはスタンドアップパドルで大満足していたぐらい、海に浮かぶことが大好きだった。波のリズムでゆられていると海とひとつになれる気持ちがするし、海の上での日光浴は陸とは違って暑さも汗もない気持ち良さがある。サーフィンの場合、沖に出るまでの苦労を乗り越えてそれがあるわけだからなおさらである。

いつまでも浮かんでいたいところだが、そうも言っていられない。大きな波がやって来たら、ボードをクルッと180°回転してパドリング開始。漕ぐ!漕ぐ!全力で漕ぐ!その助走に波が追いついて、ボードが滑り出したら立ち上がる!……テイクオフ!

と言いたいところなのだが、ここでもやはり鬼門。パドリング不足で助走が足りず、波に追い越されてしまうのだ。しかも、体が左右にブレて真っ直ぐ進まないため、波にボードがナナメに食い込んで波にのまれてしまうときもある。パドリング……これはギターで言えば「F」である。クリアできないまま、パドリング疲れだけを積み重ね、完全に打ちひしがれてこの日は終わった。

サーフィン合宿5日目

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「きょうはいい波だよ」

ホテルまで迎えに来てくれたアリさんは開口一番そう言った。ビーチに着いてみると、確かに波が穏やかで一定である、気がする。昨日の失敗イメージを打ち消して、気合を入れ直して沖に出る。そしてパドリングからのテイクオフ!……すると!

ドボンはしない。ボードの上に立ち上がり、岸までの長いライディングを最高に気持ちよく味わえた。それも何度も。しかし、やはりパドリング力が足りず、「最後の一押し」というか、テイクオフ直前に後ろから押してくれていることに、ぼくは気づいていた。

そして、この日、友人がバリにやってきた。彼もサーフィンは初体験。にもかかわらず、ぼくの5日間の成果を1日で抜き去っていった。そのとき、嫉妬したり、落ちこんだりしない自分に驚いた。それが今回のサーフィン合宿の最大の学びである。

サーフィン合宿6日目

再び波が強くなった。強すぎて、後ろから押してもらっても立ち上がれない。ということで、再びインサイドに戻る。弱点であるパドリングを何度もなんども練習した。

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サーフィン合宿7日目

ついに最終日。午前中のレッスンを終えたら、そのまま空港に向かって帰国である。アウトサイドに出て最後のチャレンジだ。一度でも自分で波に乗る感覚をつかんでおきたい。果たして「波に乗れた」と本当の意味で言えるのか。1週間で「バリでバリバリ波にノリノリ!」と言えるのか。

結論だけ、書く。

失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した
失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した
失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した

ぼくは失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した
失敗した失敗した失敗したぼくは失敗した失敗

「阿万音鈴羽」ばりに失敗した。阿万音鈴羽の引用に関してはググってまで知る必要はない。しかし、読んでくださっているみなさんは安心してほしい。

ぼくにはあきらかにセンスがなかった。パドリングが一向に安定せず、4日目以降は完全に成長が暗礁に乗り上げた。一方で、1日だけレッスン(午前と午後の2回で9,000円)を受けた友人は、パドリングでつまづくこともなく、その日のうちに沖から波に乗れるようになっていた。サーフィンの上達はほんとうに人それぞれなのだ。

悔しくない、といったら嘘になるが、ぼくはそれを受け入れることができた。こういうとき、ぼくは自分に失望して嫉妬して落ち込むことが多かった。でもサーフィンは、いやサーフィンが、人と比べる必要なんてないのだと教えてくれた。

1週間でダメなら1ヶ月、それでもダメなら1年やればいい。サーフィンは、インサイドで波乗りするだけでも、アウトサイドで波待ちするだけでも最高に気持ちいい。そして何より、サーフィンはうまくなっていく過程こそが一番楽しいからだ。美味しいご飯をよく噛みしめて味わうように、サーフィンの上達を一歩ずつ味わえばいいのだ。

東京五輪の種目に追加されたばかりだが、サーフィンは競争するスポーツではないと思う。「旅」が決して誰かと競争したり比べたりするものでないように。

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ぼくは、湘南でサーフィンをはじめることが怖かった。上級者たちが幅を利かせて、いい波の奪い合いをしているイメージがあったからだ。調べてみるとサーフィンにはルールがあって、ひとつの波に乗っていいのはひとりだけ。しかも、波に対して、より沖から、より内側から、テイクオフしたものが、その波に乗る権利がある。

どちらがより沖にいて…どちらが内側にいて…そんなの初心者には分かんないよ、とぼくは思った。弱肉強食で既得権益みたいなルールが嫌いで怖かった。波が大きい場所、いわゆるよいポイントほど、こういうルールが厳しくなるのだろう。少なくともぼくは、そんなサーフィンは楽しめそうもない。

だからこそバリに来た。世界中から初心者ばかりが集まるこのエリアに、小難しいルールはなかった。無礼があっていいわけではないが、無礼講があったというわけだ。アリさんに守ってもらっている理由もあるにせよ、バリでは最高にのびのびとサーフィンの楽しさを学ぶことができた。

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「サーファーは一般の人々に私たちが海でおそわった事を伝えなければいけない」という記事に、こんなコラムが掲載されていた。ちょっと長いので思い切って要約しよう。

サーフィンというのは非常に個人的な活動だ。それは現代のように忙しい状況でも、サーファーは大海原でただひとり、自分の考えと行動の世界の中にいるからだ。中には荒っぽく騒がしく、攻撃的で競争心が激しい人もいる。一方では静かで考え深い人もいる。人間としての個性があらわれるのは陸の上でも波の上でも同じなのだ。

サーフィンを見るとサーファーの人間性が見えてくる。チャカチャカしてたり、気まぐれだったり、知的、本能的、筋肉質、デリケートだったり。それは彼らの生き方そのものだ。サーファーのスタイルとは、個人的なメッセージと言えるかもしれない。

サーフィンというのは、自分はこうでありたいと望む理想像に近づいていくこと。波の一本一本から、人は海や自分自身についての教訓を学んでいく。それは結局、いかに自然に溶け込み、一体化できるかが、波をメイクするということにつながっていくわけだ。

長年の試行錯誤によって、サーファーは海からユニークな知恵を学んできた。それは漁師が海で働いてその収穫で生活するのとは違って、サーファーは海とともに流れてその懐で遊ぶということだ。言いかえれば、非生産的な哲学を学んだのである。

ティモシー・リアリー博士は、かつてこう言った。「人類はこれまで主に自分を守って富を得るという、低い次元で進歩してきたが、サーファーは本質的に一般社会が気づくよりもずっと早く高い次元に達した」と。

サーフィンには人間性が現れる。競争を求める人もいるし、そうでない人もいる。ぼくは後者であるとあらためて気付かせてもらった。もちろん生き方の面でも、だ。

それに、もうひとつ。サーフィンは立ち上がるときも進むときも曲がるときも、体を動かすのではなく、視線を動かしてコントロールするのだが、こんなサーフマインドがある。

「行きたくない場所を見るのでなく、行きたい場所を常に見続ける」

負け惜しみと思われるかもしれない。それでもいい。帰国したらルールを守って湘南デビューするし、果てしない夢だとしても「グリーンルーム」を見てみたい気持ちも変わらない。でも、その過程で、誰かと比べることはないだろう。ぼくはバリで「比べないこと」を教えてもらったのだから。

 

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