手ぶらの旅は、準備が1分(1日目-2)
2016/11/23
目覚めるのに何の前触れもなかった。
すべての前置きを抜きにして始まった物語のように。
「おかしいな。目覚ましが鳴っていない。まさかーー」
あわてて目覚まし時計を引き寄せるも、セットした時間の5分前。自然に目が覚めるということは、それなりに緊張しているということだろう。いまだ、全身にまとわりつく“トラベルブルー”を振り払うようにして、一気に服を着替える。そして、机の上に並べておいた「スマホ」と「クレカ」と「パスポート」をポケットに入れる。ベルトにドリンクホルダーをセットする。ここまで1分。
「会社に行くより早いかも。」
準備は、それだけでもう整ってしまった。
玄関の扉を開くと、一瞬の風に全身が包まれる。「ほんとに、いいのかな」という風な、ふわっとした違和感。抗うようにして外へ飛び出し、いつもの駅までの下り坂を降りていく。しかし、その違和感は晴れることはなく、むしろ曇りはじめの雨雲のように積もっていく。
一歩、一歩が軽すぎるのだ。
「手ぶら」という身軽さは、どこか自分を騙しているような気がしてくる。前日の夜も、準備は何もしていない。友人と夜まで飲んで、朝になったら起きて、いつも通りの坂道を歩いていく。インドへ行く実感が、まるでない。もう旅は始まっているというのに。
そんなことを考えているうちに最寄り駅に着いてしまった。電光掲示板を見ると、成田へ向かう電車は30分後。
「ちゃんと調べてから出発すればよかったな」
ゆるい後悔をしながら、考えを改める。行き当たりばったりの旅に出るのに、電車の時間を調べるところから始まるなんて可笑しな話だ。駅のまわりを散歩したり、朝ごはんを食べたり。そのまま家に帰ってしまいそうな穏やかな時間が流れていく。
電車に乗って10分後。とある異変に気付く。ベルトにつけていたドリンクホルダーと、そこにぶら下げていたタオルが消えていた。きっと駅で時間つぶしをしている間に落としてしまったのだろう。
…あはは!
電車の中でひとり声を上げそうになった。
「おれはまたひとつ身軽になった!」
手ぶらでインドに行く、その実感がようやくワクワク湧いてきた。
成田空港に近づくにつれて、電車の中はスーツケースを抱えた人で満ちていく。それに比例するように、「手ぶらの自分」という存在が、場違いで、浮いているように思えてくる。そんな違和感は、不思議な優越感へと変わっていくのであった。