TRAVERING

なぜ旅に出るのか?そこに地球があるからさ。

【旅訳:方丈記】元祖ミニマリスト 鴨長明の人生をたどる旅(前編)

   

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せせらぎの音もなく穏やかに流れる鴨川。都から歩いて15分の距離にも関わらず、その賑わいは遠く彼方に思える静寂がある。

鴨川のほとりで生まれ育った長明は、自分ではどうにもならない憂き目にあうたびに、この川を眺め続けてきた。安定した人生なんてどこにもない。思えば、いつ見ても変わらないように思える鴨川も、その流れは絶えることがなく、同じ水がとどまることは一度としてないのだ。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」

ふいに、水面から言の葉が浮かびあがってきた。鴨長明、58才。方丈記の構想ができあがった瞬間であった。

 

●鴨長明は元祖ミニマリスト

「川の流れのように、あゝ無常。もう嫌になっちゃうよね、南無阿弥陀仏。」

方丈記はその程度の話だと思っていた。しかし、大人になって読んでみると実に驚かされる。「物を持たずに、人と比べずに、シンプルに生きよう。」そんな現代に通ずるメッセージを発していたからだ。

そもそも、鴨長明という人物は「無常の悟り」とは縁遠いほど人間くさい。30歳までニートであり、47歳まで売れないミュージシャンであった。そのくせ、自意識だけは異常に高く、周りの目をやたらと気にする性格だった。

そんな長明が挫折の連続の末に辿り着いたのが「小さな暮らし」。方丈記の「方丈」とは「四畳半」のような意味であり、最小限の家と物だけあれば充分。好きなことをやるだけさ、と説いているのが「方丈記」なのだ。

京都市伏見区にある「日野南山」には、長名が暮らした家の跡地が残されている。この旅では、彼が辿ってきた苦難の道のりを歩きながら、その数奇な人生を振り返ってみたい。

 

●下鴨神社の跡継ぎとして生まれて

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鴨長明の「鴨」は、下鴨神社の鴨である。京都でもとりわけ裕福な神社であり、父親はその神主だった。跡継ぎとして将来も安泰だった長明は、御曹司として何不自由なく育てられた。が、しかし。19歳のとき父親がまさかの急死。後ろ盾を失くした長明は、後継者争いに敗れ、親戚にその座を奪われてしまう。

『住みわびぬいざさは越えむ死出の山さてだに親のあとをふむべく』

信じられない。もう死にたい。神主にはなれなかったけど、せめて死ぬことで親の跡を踏もう。

しかし、長明は踏みとどまる。有名になって見返してやる。その想いが勝ったのだ。当時のスターといえば「藤原俊成」をはじめとする宮廷歌人。和歌を極めて成功するには、まずは公募で新人賞。一流歌人が審査員を務める「勅撰和歌集」に選ばれなければいけなかった。

それから10年後。長明は輝かしいスター街道を……逆走していた。

 

●売れない自称ミュージシャン

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鴨長明30歳(無職)。売れない和歌ばかり詠んでいても、端から見れば遊んで暮らしているだけの穀潰し。ついに長明は家から追い出されてしまう。

ぽつり、鴨川のほとりでひとり。この場所で川の流れを見つめていると、いつもアイデアが浮かんでくる。

この日のそれは自暴自棄。このまま鴨川に住んでやろう、そう思い立ったのだ。苦労して作り上げた家は、ときに水害に悩まされ、ときに浮浪者狩りに襲われた。それでも。自分でも驚いたことに不自由はなかった。家族の目を気にすることなく和歌に集中できたからだ。

それより思い悩んだのは、藤原俊成の息子にして、若きスター「藤原定家」の出現だった。

父親の後ろ盾を失くて神主になり損ねた自分と、父親の後押しを得て華々しく活躍する定家。長明は激しく嫉妬した。それだけじゃない。定家は本物の天才だった。繊細な技巧を凝らしたファンタジーな世界観は「幽玄」と称され、和歌の歴史を次々と塗り替えていく。

愚直でストレートな和歌しか書けない長明とは正反対。このままでは時代に置いていかれてしまう。もう後がない長明は、徹底的に定家を研究して、それを真似た。恥もプライドも追い出された家に置いてきた、わけではない。自意識を押し殺しての強行だった。そのなりふり構わぬ努力が奇跡を起こす。

33歳の春。藤原俊成が勅撰した「千載和歌集」に、一首、選ばれたのだ。

「たいした身分でもない、有名人でもない自分の歌が、たとえ一首でも選ばれたなんて本当に有難い。」そうコメントを残した長明だが、喜んでばかりもいられない。一発屋で終わった人間はいくらでもいる。上には上が、定家がいる。

それから14年後。長明はスター街道を……なんと、走っていたのである。

 

●一発逆転、まさかの国家公務員

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長明を導いたのは「後鳥羽上皇」。天皇の地位を早々に譲り渡して、和歌に打ち込んだ人物である。その鶴の一声によって「プロ歌人」として宮廷に雇われたのだ。このとき長明は47歳。はじめての就職が国家公務員。あの藤原定家と同じ職場でもあった。

『夜昼奉公怠らず』そう評判になるほど、長明は働いた。好きな仕事に好きなだけ打ち込める理想の職場。これ以上の幸せはないと信じていた。

しかし、今度は身分の違いが長明を苦しめる。元御曹司といえども、宮廷という殿上人の世界では地下人にすぎない。宮中歌会で長明が座らされたのは、定家より一段下の末席だった。和歌の試合では定家に連勝することもあっただけに納得がいかなかった。

そして、もうひとつ。長明は琵琶にも打ち込んでいたのだが、ある日、師匠が亡くなった。弔いをこめて、長明はミュージシャン仲間と一夜限りのシークレットライブを開催。師匠の「秘歌」を披露する。長明には、和歌よりむしろ琵琶の才があった。あり過ぎた。

その腕前はあまりに素晴らしく「伝説のライブ」と評判になった。しかし、秘歌とは門外不出の秘伝である。気安く人前で歌ってはならないというのが当時の常識だった。そのことが大御所にバレたのだ。長名は大目玉を喰らって芸能界から干されてしまう。

なんだよ、別に構わないじゃないか。身分にしても、秘歌にしても、世の中つまらないルールばかり。好きなことを好きにやれる「本当の自由」はどこにあるのか。

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同時にチャンスもやってくる。下鴨神社のお膝元である「河合神社」の神主に欠員が出たのだ。長明の父親も河合神社を経て下鴨神社の神主へと昇格した。かつて果たせなかった、父親の跡を踏む出世コースである。

長明の働きぶりを高く評価していた後鳥羽上皇は「余のお墨付きで神主に任命しよう」と長明に約束する。そのとき既に50歳。歌人としても遅咲きだったが、努力は必ず報われる。世の中捨てたもんじゃない。長明は完全に浮き足立っていた。しかし、またしても親戚筋から横槍が入る。

「和歌にかまけて神主の修行を怠ってきた人間に神主が務まるわけがない。」

至極真っ当な意見である。さすがの後鳥羽上皇も神社との関係を無下にするわけにもいかず、長明に代案を提案する。

「悪いが河合神社は諦めてほしい。だが聞いてくれ。長明のために新しい神社を建ててやろう。そこの神主になればいい。」

破格と言える条件だった。しかし、長明はここで驚きの行動にでる。失踪したのだ。しかも、その姿を見つけたときには出家していたのである。

「河合神社でなければ意味がない。俺は父親の跡を継ぎたかったんだ。」どうしてそんなことも分かってもらえないんだ、そう言わずして背中で伝える行動だった。

 

●傷心のミニマリスト

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出家した長明は比叡山の麓に移り住んだ。仏道のメッカである。

しかし、長明は和歌をやめたわけではない。むしろ、和歌に集中するためだった。仏道を極めることと風流を極めることは近いとされていた時代である。フリーランスとなった長明は、その翌年に勅撰された「新古今和歌集」に10首選ばれるという快進撃を見せる。

念仏だけを唱えるためだけに来たわけじゃない。その気質は真面目な修行僧から反感も買った。長明はその声が届かない場所を求めて比叡山の周りを転々と移り住む。折り畳み式の家「モバイルハウス」の着想を得たのはこのときだ。

そして、鴨長明53歳。比叡山を離れて「日野南山」に自ら家を建てる。さほど山奥でもなく、京からも歩いて数時間。都で開催される歌会にも、ひょいと出かけていく長明にはちょうどいい場所だった。

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日野南山では完全にひとりになれる。人目を気にして衣服にこだわる必要もないし、山菜を摘めば食べ物はいくらでもある。家なんて四畳半もあれば充分だ。物に惑わされず、人に煩わされず、好きなだけ和歌を詠い、好きなだけ琵琶を弾くことができる。これ以上の幸せがどこにあるというか。

長明は「本当の自由」を見つけたのだ。そして、方丈記が生まれるのである。

 

●鴨長明の人生をたどる旅

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これまで書いてきたのは、僕が旅をしながら思い描いた鴨長明の物語である。

もちろん史実を元にしているが、厳密なところでは国文学者に怒られる部分もあるかもしれない。それよりも僕が伝えたかったのは、「鴨長明とはどういう人物だったのか」を考える旅、史実と史実の間にある「心の動き」を想像しながら旅をするという提案である。

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長明が方丈記を書いたとされる日野南山には、モバイルハウスの跡地として「方丈石」が残されている。訪れる人は少なく、グーグルマップで見ると唖然と顎が外れる山中にある。

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繰り返すが、完全に山である。

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そして、粋な計らいと言うべきか、長明はそのようなことを望んでいなかったようにも思えるが、神主になり損ねた「河合神社」でモバイルハウスが復元されている。

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人と違う道を歩む者は、その道を伝えたがる。それは自分を正当化するためかもしれない。しかし、共感を得られなければ、それが語り継がれることもない。今なお教科書にその名が刻まれているには理由があるはずなのだ。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」

川の流れのように時代は変化し続けるもので、人生はいつ何が起きるかわからない。

その言葉は、長明が歩んできた人生を知ることで、その道を実際に旅して読むことで、味わいを増していく。何より、方丈記の「最後の一行」に対する捉え方が変わるのではないだろうか。

後編は「方丈記」の舞台をたどる旅とともに、方丈記で書かれている内容に迫ります。

 

後編につづく

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